リキッド・ジンに虹を架けて


 日記を読み返しながら、思い出を辿っている。
 深い泉に潜るような心地だ。青く青く、光を薄めては待ち受ける出来事。そのいずれもが二度と宿らない苛烈と臆病で満たされている。
 何度も地上へ上りたくなる衝動が、繰り返しめくられゆくページが、ちぐはぐな泡を作っては現在へ昇っていく。休憩を取ろうと思いながら、また沈む。誰かがこの家を訪ねてきたら、今度こそ私は席を立つだろうか。あるいは。
 そろそろ机上のランプでは心もとなく、目は暖炉の明かりを恋しがっているようだった。

 雨の日は、心に隙間ができる。
 雨が憂鬱だと言えば、時々ありがた迷惑な反論を受けた。それにうんざりして使い始めた言い回しだ。この表現は、雨を進んで好む者にも幾分か愛されるようだった。
 幼い頃から、雨の日は書物と過ごすことにしていた。曇り空を払い、垂水を押し返そうとするよりも先に、そうするべきだと知っていた。
 物語の世界は、晴れていなくとも構わない。囂々たる大嵐が船を沈めても、そこに不思議と救いがあるようだった。

 あの日、リキッド・ジンも雨に追われていた。
 17歳もそろそろ終わろうかという、ある休日だ。日記を見ずとも述べられる。
 どこぞの青年が、雨宿りを求めて戸を叩いた。今の私ならまず身構えるところで、扉を開けた。青年は穏やかで、細く痩せていて、自分より年上のように見えた。
 私は早くどこぞの研究家の伝記へ戻りたくて、やや乱暴に布巾を投げ渡した。それから青年が立ち尽くしているのを見て、使っていない椅子をひとつ、テーブルの横へと引いた。
 青年は大粒のしずくを布巾に移しながら、本を読む私へとしきりに話しかけてきた。
「雨は苦手ですが、あなたもですか」
「どうしてそう思う」
「窓を見ようともしないから」
 鬱陶しく思うと同時、彼の言葉のぎこちなさが気になった。文章としての拙さではない。いろいろな言葉を使い、何が意味を持つのか試そうとしているように思えた。
「何を眺めているのですか」
 私は彼の事を知りたがった。それは様々な苛立ちによって生まれた、意地の悪い、試すような好奇心を含んでいた。
「これは本だ。向こうの棚にあるから、読めそうなら読むといい」
 続いて彼がどこの国から迷い込んできたのかを尋ねようとしたとき、私は自身の迂闊さを悔いた。彼がまだ濡れたままの手を本棚へと伸ばしている事に気付いたのだ。

 春の雨は、ようやく訪れた暖かさごと受け入れ難い何かに変えてしまうようで嫌いだ。
 これは後悔の記録であり、思い出すには全く気が進まないのだが、彼との出会いである以上は記しておこう。
 一瞬ではあったが、つい、想像よりも大きな声が出た。青年は肩を強張らせて萎縮した。他人の庭の花が綺麗だったからと、それを両手一杯に摘み取った子供に似ていた。
 静まりかえった部屋の戸と窓を、雨が隙間なく突いた。正義は罪悪感にすっかり曇らされてしまっていて、私は頭の中に悪い熱を持て余しながら慎重に言葉を重ねていく事を強いられた。
 私は敵意のないことを説明し、非礼を詫びた。そうして彼に新しい布巾を渡し、古い新聞紙を例にして紙の性質を説いた。後悔の余韻に投げ込まれた私が思ったよりも冴えた説明をすることも、青年が学びを得たように頷くことも喜べず、無理を言って逃げ出してしまいたくなったのを覚えている。それでも彼があんまり晴れやかに褒め称えるので、私の興味はだんだんと、彼とよりわかり合う方法を探す方面へ傾き始めた。
 今にして思えば何もかもが軽率な日であった。大雨が降ったことよりも、青年が彷徨っていたことよりも。一生に二度出るかというような間隙が偶々あの日にあったことこそが、運命のいたずらに思えてならない。
 私は雨の日に、私にとって憂鬱そのものが降り注ぐような日に、それを忘れて朗読をした。見ず知らずの青年にだ。
 すっかり夜の更けた頃、青年は何度も礼を言ってから帰っていった。
「夜が明けてからでもいいのに」
「気にしません」
「また来ればいい」
「ありがとう」
「名前は?」
「ジン」
 このようなやり取りだったと思う。こちらの名を聞かれなかったことに気付いたとき、戸は既に小雨の中から閉め終えられた後だった。

 一歩遅れてジンが私の名を知ったのは、一週間後のことだった。
 ジンの目的は読み聞かせだった。味を占めたといえばそうなるのかもしれないが、彼のまるで毒気のない素直さを見ていると別段構わないように思えた。後から彼を訝しむこともあるにはあったが、べつだん詐欺も物盗りも起きはしなかった。
 この時期の雨は忘れかねたように細く降り、その隙間を縫って短く晴れた。彼はいつも雨音と共に現れ、その度に読むことを学んだ。
 伝記の冒険家がベッドの上で生涯を終え、私が次に読むものを決めかねている間に、ジンは着々と外見相応の振る舞いを身に着けていった。

 やがてジンは一人で本を読み始め、時おり理解の及ばない箇所を尋ねてくるのみとなった。
 私は本棚の傍に置かれた椅子の、丸まっている彼の背中にそっと声をかけた。彼の出身について。暮らしについて。雨の日にだけ訪ねてくることについて。いつも夜道を、明かりひとつ持たずに帰っていくことについて。今なら彼の言葉を通じて聞けるのではないかと思ったのだ。
 ジンはそのすべてに答えてくれた。
 雨の日に来るのは、ここ以外に屋内を知らないから。夜道に迷わないのではなく、迷っても構わないだけ。寝床はなるべく深い川の底。出身地については、湖で、もう無いとだけ述べた。
 私は彼に対して今までにないほどの疑念をぶつけたが、ジンはすべて真実を話したつもりであるらしかった。徐々に表れ始めた困惑の仕草が、出会った日と同じものだった。
 私はほんの一度だけ、冗談めいた彼の世界へ付き合ってみることにした。
「この間まで、あの丘の向こうにシキッリ湖というのがあった。君はそこから来たのか?」
「シキッリと呼ばれていたのか。魚や雨たちはジンと呼んでいたんだ」
 素早く、淀みない返答だった。
 かくして、招き入れた客は人外の者を名乗った。しかし、彼が結局何者であるのかは、自身にも確信が持てないようだった。
「正体なんて考えもしなかったんだ」
彼は窓へ寄り、かつての湖を遠く眺めるようにして呟いた。
「大魚だったことがある。湖底に根を張って、泡を吐いていたこともある。いつかにはそのどれでもなく、ただ存在だけがあった気もする。いつでも湖に関連していたことだけは確かで、湖そのものだったのかもしれない」
「つまりはリキッド・ジンか」
何気ない一言であったが、彼はこの言い回しをいたく気に入ったらしい。あの日から身に着けた表現で私を一通り讃えると、自らもそう名乗るようになった。信じるにしろ、疑うにしろ、彼が慣れ親しんだ客人であることには変わりなかった。

 ほどなく私は18歳を迎え、ジンのいる暮らしが当たり前であることへそう疑念を抱かなくなった。食卓に彼の好んだ薄いスープを並べ、夕食ごとにいろいろな話をした。
 初夏に、海を訪ねた日があった。ジンのような存在が他にいるとしたら、などと考えを巡らせていたところへ、彼が同じように興味を持ったのがきっかけだった。ちょうど彼が私の書架を漁り終え、自身に必要なだけの知恵と感激とを選び終えてしまった直後のことだった。
 今の自分ならば探せるかもしれない、とジンは言った。人の感覚の領分が身に付いてきた今ならば、そうでないものを感じ取ることもできると。
ただし近くにある河川や湖からは何も感じ取れないらしく、少し遠くまで足を伸ばしたいと言った。
 客人を待つばかりの長休み。その中の一度くらい、用もなく出掛けるのもいいかもしれない。私は承諾し、日を待った。そうして、地図を片手に出発した。


 夏の雨は唐突だ。
 盛夏にすらほとんど人の寄り付かない岩辺を歩いていると、いつの間にかジンが見当たらなくなっていた。それどころか、今まで渡ってきたはずの岩まで消えている。
 離れ小島となった小さな足場から、何度か大声でジンを呼んだ。

 それから何を考えていただろうか。一面の青と黒とに押し潰され、ただ立ち尽くしていたように思う。
 やがて水平線の方角から大きな背びれが近づいてきたことで、私は泳いで海を渡ることを思い出しては諦めた。いよいよ窮したことを悟り、ただ祈った。ジンに頼まれたシャチが自分を探しているなどとは思いもしなかった。
 ジンは「居た」とそれだけを言い、肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返すばかりだった。潮風が彼の喉を焼き、肌と目とを赤く爛れさせていた。私の方も喉を強張らせながら、短い礼の言葉をなんとか絞り出せたのみだった。
 それから彼はふらふらと立ち去り、姿を消した。
 
 彼と再び話せるようになったのは、それから三日後のことだった。後から聞いた話では、どこかの川底へと身体を癒しに行っていたそうだった。
 出会い頭、私は掠れた声で挨拶する彼をとある山道へ誘った。中腹に湧水が溜まっている場所があると聞いたのだ。
 ジンはまだ腫れている瞼から薄くこちらを見上げ、首を縦に振った。どれだけ休んでも疲れたままのように思える彼に、少しでもしてやれる事を探していた。
 道中、私たちはそれとなく励まし合った。どんな疲労の中に在ってもこのまま歩き続ければいずれ着くのだと、ただ諦めるとさえ言わなければいいのだと、その場にありもしない朝露や虹の話をした。私の足取りが逡巡と後悔で重くなっていたことを、彼の足取りが今にも道を外しそうなほど軽かったことを、互いだけが知っていた。

 最後の数歩はただよろけていたのと変わらなかったが、我々は辿り着いた。透き通った泉へ体を横たえると、ジンの負傷は見る間に水へ融けていった。
 そのまま全身が消えてしまうのではないかと心配になったが、彼はすぐに顔を出し、水面から私へ向けて上機嫌に手を振るので、そこから私の連ねてきた謝罪の、重苦しいだけの部分はほとんど用を成さなくなってしまった。

「いたよ」
 私の手を取り、岸へと上がる最中にジンが言った。あの海には、彼の同類がいたのだそうだ。曰く、近海の精霊と名乗るその者はジンと二人きりで話したがったのだという。
「君に席を外してもらうよう振り返ったときには、もうはぐれていたんだ。それがあんな場所だとは思わなかったよ。知っていたら、すぐに帰っただろう」
 私は気にしていないと伝え、話の先を促した。彼の払った代償の方がずっと大きいのだ。
 彼は私の隣へ並ぶようにして座り込んだ。
「二度と来るなってさ。君に出会った日の、あの大降りの雨と同じことを言うんだ。どうして陸の生き物なんかになったのかって」
 水へ揺蕩っていた服や髪はもう跡もなく乾いていて、私は彼の悲しみへ触れるのを躊躇いかけた。伏せられかけた瞳が、彼を拒絶した海と同じ色をしていた。
 彼は続けた。
「だから、あの海へ行くことはもうないだろう。シャチたちが僕の方を手伝ったとき、向こうは随分腹を立てていたようだったし」
 君があの場所を好いていたらごめんね、と。
「そんなことはいいんだ。君が無事で良かった」
「こちらこそさ。それに君がいなければ、僕は海の眷属と思いを通わせたりしなかっただろう。こんなに澄んだ水へ出会うこともなかった」
「良ければ山頂まで行ってみないか。きっと、水はないが」
「空気は綺麗かもしれないね。案内を頼んでもいいかい」
 歩き出す折、私はふと思いついて言った。
「きっと君は、湖の王だったんだ」
「それはいいね」
 ジンの瞳の底が泡立つ深水のように光った。彼が存外はにかみ屋だと気付いたのはその時だ。

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