モナルカのカーテン・コール



「ハルアード、今日こそ決着を着けるぞ」
 枯れた土地の端に、不思議な建物が浮いています。その重たい扉を開けるとハルアードがいて、呆れながら勝負を受けてくれるはずなのです。
 今日はいません。セヒラハは残ったものを全て賭けてしまうつもりで、何もかもにお別れを告げ、何夜もここを探し回った直後だというのに。
 見ると、無機質な床にカードが散らばっています。″人″や″言葉″のカードを使って″神様″を取り合うゲームでした。ハルアードをあと一歩のところまで追い詰めたりもしましたが、一度も勝てませんでした。
 テーブルの上には新品の駒がありました。思い当たりがあります。いつかのゲームで駒を壊してしまったことがあるので、次はその仕切り直しにしようという考えなのでしょう。駒を増やして遊ぶルールがあり、いきなりそれを始めるつもりだったのかもしれません。セヒラハは唐突にハルアードを訪ねますが、ハルアードの方だって唐突なのです。
 セヒラハが「おひらき」という言葉を知ったのはその時でした。どこから見てもハルアードが勝つところでしたが、決着を付けようとして付かなかった勝負はあれっきりです。
 あとは全てセヒラハの負けです。何となしに教わったコイントスで負けてからというもの、ずっとそうなのです。
 ハルアードと出会う前のことを何ひとつ覚えていないセヒラハには「勝ち」という感覚も遠いもののはずでしたが、それでもとても悔しいのでした。

 せっかくなら、とセヒラハは隠し部屋を覗きました。次の勝負に使うものの幾つかが、ここに仕舞ってあるのです。ハルアードに説明されるまでわけのわからないようなものばかりなのですが、それでも考えようはあります。土を踏み、水を滑り、関連しそうなものをどこまでも行って探すのです。
 ズルいことをしている自覚はありましたが、この部屋自体、ハルアードがこっそりと見せてくれているような気がするのです。互いに解っていることならば、ここではそれがルールでした。
 部屋にはジェラートが二つ置いてありました。セヒラハはたじろぎます。一皿の食べ物を目の前に出され、食べずにいられるか、なんて勝負をするのです。
 結果はいつもセヒラハの、あるいはハルアードの覚えている通りです。ジェラートというものはみんなああなのでしょうか。冷たいのに暖かく、舌を刺すようでいて甘く優しい。
 熱い砂のような香辛料と、ピラミッドを削って作った粉砂糖とが混ざり合って、感性の何もかもに溶けていくような。
 その幸福の中では今日も明日も、嘘のように無くなる、その瞬間まで永遠にあるようでした。無数のなめらかな祈りが、言葉の外で煌びやかに光っていました。
 他の料理もそうです。ガラスの棺で育てられたリンゴのパイ。優しい歌の散りばめられた焼き菓子。溶岩と灰のグラタン。ニンジンのジュース。どれも同じくらいに美味しく、抗いがたいものでした。その中で強いて一番を挙げるならば、このジェラートなのです。最後の勝負、なんて覚悟を決めたとき、絶対に出てほしくないのがこれでした。
 ゲーム中には多弁なハルアードが、この手の勝負に関しては勝ち誇りもしません。セヒラハが食べ始め、食べ終わるまでただじっと見ているのです。
 最後なのだから。勝っても負けても、どちらかが徹底的に悔しがるような勝負がいい。だからハルアードに負けて、誘惑に負けて、自分自身にも負けて、それでも悪くない気がするような、そんな戦いだけは嫌だ。だからジェラートだけは出てほしくなかったのです。
 いつまでも溶けずに、ここでセヒラハを待っていたのでしょう。今はハルアードを待っています。


 重たい扉が開き、影が入ってきました。セヒラハよりも背の高い、黒い服を着た者です。
「ハルアード!」
 セヒラハが駆け寄ります。全てを賭けて、ようやく決着を付けるのです。
ひととおり話を聞いたハルアードは短く、
「来い」
とだけ言って、セヒラハを外へ連れ出しました。

「月が大きいとは思わなかったか?」
「確かに大きかった」
「あれはここへ落ちてきているんだ」
宙に浮く建物の屋上で、ハルアードは空を指差します。
「もう倍の大きさだ。火が震え、土もざわついている。この星は壊れるだろう」
 もう片方の手には、二本のスプーンが握られています。その一本と一緒に、あのジェラートを差し出しました。
「食べないぞ」
「勝負じゃない」無愛想に、しかし誤解を解こうと、ハルアードは二皿のうちの片方を食べ始めました。
「餞別だ」
 セヒラハは、この存在が何かを食べているところを初めて見ました。
「おまえは行かなくてはならない。」
 銀のスプーンで、少しずつ削り取っていきます。月がとても眩しいので、よく見えるのでした。
「おまえは、自分以外にヒトを見たことがあるか?」
 ハルアードが尋ねます。ここにいる、と答えると、
「いいや、無い」
と、返ってきました。
「この星はもう死んでいるのだ。それが今から壊れる」
 話している間にも月は近付き、大きくなっていきます。
 セヒラハは、この星に命があった頃を知りません。死というものを知りません。ただ寂しげな色の、その中の砂やでこぼこが段々と鮮やかに、セヒラハの目へまじまじと映るものですから、それで理解をしました。
「月とは違うのだな。ここでは何かが生まれ、全てが死んでいった」
 ハルアードが頷きます。
「覚えていないだろうが、おまえはむかし生きていたのだ。そうしてこの星が枯れるさなか、同じように残されていった。死だけを教えなかったのは……」
「そういうお前はヒトではないのか」
ハルアードの話を、セヒラハが遮りました。
「ああ」
 ハルアードがスプーンを手放します。
「滅びの後に残るものを、ヒトの流れに還さねばならない。そういう時に駆り出される存在だ」
「死の神というものか」
「買い被りだが、そうだ」
 空を覆う月の外側には、変わらず星が光っています。その中のひとつを指差してハルアードが言いました。
「おまえがヒトの亡霊なのか、あるいは惑星に焼き付いた影なのか。わたしはどちらでも構わない。大地が砕け、それでも何かが残ったならばあの星を目指せ。願うだけでいい。その向こうにヒトの移り住んだ星がある。行けば、いつか命というものを得るだろう」
「もし別の場所を目指したら?」
「止めはしない。ただ、わたしはそういう存在なのだ」
「そうか」
「強制もしない。ただ」
視線の先には、溶けないジェラートがきらめいています。
「これを喜べるなら、きっとやって行ける」
 ハルアードが死というものの存在をいつまでも教えずにいたのは、セヒラハがこの世界の何もかもを忘れていたからでした。ヒトを知らず、欲を知らず、ただ消えてしまうことを覚えたとき、この魂がどこへ行けるのか判らなかったからです。
 矜恃であり、慈悲であり、希望から来る我儘でもありました。魂を掬い上げる神としての。滅びた星に残る、たったひとりの幽霊への。
 二人の間には凄まじい速さで時間が流れていきます。命のないもの同士、他に比べるもののない同士、それが普通のことでした。世界へ交じるのではなく、それを見守る者の持つ時間です。
 当然こうして座っている間にも、いくつも日が流れていきました。
 滅びを受け入れた星は同じ空を映し続けるものですから、たった一夜のことのように思えますが、実のところは違うのです。金貨のようだった月が、日ごとに少しずつ、少しずつ落ちてくるのを、この二人だけは早回しで見ているのです。
 だんだんと海が膨らみ、土は溶けて、最後にはこの家だって残らないのでしょう。
「話は以上だ。食べたくば食べ、行くならば行くがいい。星の方角は覚えているか?」
「行くよ。見なくてもわかる。迷うこともない」
 セヒラハはとうとう空を覆い尽くす月の、その向こうを見つめました。それから、
「賭けをしよう」
 と、言いました。
「賭け?」
「ああ。お前に命を、死を教わって思うのは、元々これを奪い合っていたに違いないということだ。お前の話に出てくる獣も、鳥も、蝶も、ヒトも、皆どこへ行ったのだろうと考えていた。死というものを知って、そこへ飲まれたのだろうと思った。それでも」
「ああ」言葉を、考えをひとつひとつ受け止めるようにして、ハルアードが先を促します。
「それでも。それまでに、何度も命を懸けたと思うんだ。丸ごとじゃなくたって、代わりのものであったって。お互いに自分自身を削り出して、混ぜて、その上にカードを乗せたんだ。
今までに足りなかったものがあるならば、きっとそれだ。今まで何も賭けてはいなかった。ただ与え、受け取るだけのゲームをしていたんだ。とても楽しかった。
だから今から賭けをしよう。セヒラハとハルアードの命を、少しずつ乗せて」
 死神に命などありません。自省なく繰り返す、単なる機構のひとつに過ぎません。
 それをこの幽霊は賭けろと言うのです。死を理解したばかりの口で、躊躇いなく言うのです。
「何を賭けるつもりだ」
「これから目指す星の向こうへ、お前も着いてこい」
「向こうには向こうの死があり、きっと神だって出来ている。ハルアードはこの星と役目を終えるのだ」
「だったら尚更だ。どのみち消えるのなら賭けてしまえ」
「わたしが勝った時はどうする」
「それはお前の胸に訊くんだ。きっと、そうでなければ始まらない」
 言葉を受け取って、ハルアードは考えました。滅びの時が迫るのも気にせず、何日分も黙り込み、ようやく決めました。頭の中の、初めて使う部分がひどく軋みます。
「この惑星で過ごしたことを、わたしと居た日々のことを忘れてもらおう」
「いいのか」
「死神の命などというものがあるのなら、それで釣り合いが取れる」
「わかった」
「賭けの方法は?」
「あの月が落ちるとき、上を向いているのが裏か表かを賭けよう」
「ああ」
 月がいつかこの地の一部であったことを、ハルアードは知っています。知っていて、ただ
「裏」
と、そう言いました。
「じゃあ表だ」
「ああ」
 空はもう煌めいてなどいません。赤々と、眼前に迫るものが目を焼くばかりです。
 それでも、セヒラハの目には穏やかな希望が満ちていました。
「行くよ」
「これはいいのか」
 死神がジェラートを指します。
「″それ″はもう足りている」
 今までありがとう。セヒラハがそう言うと、ジェラートは形を失います。器は砂に、祈りは水になって、スプーンだけが残りました。
「一人で行くのだから、これくらいが丁度いい」
「そうか」
「さようなら、死神」
「ああ」
 セヒラハの身体が少しずつ透けて、音もなく消えました。呪いも祝福も、何も残さずに去りましたから、本当に居たのかどうかすら定かではありません。知っているのはハルアードだけです。
「さようなら。この星を埋め尽くした王の、最後の一人よ」
 古びた死神がひとり。誰もいない星の上で、最期を待っています。

「やはり無理か」
 ハルアードが呟きました。姿はありません。
 地上になく、かといって宇宙でもなく。どこかの空の上で星を見ています。地球や月と呼ばれた、大きな石を見ています。
 ぶつかり、焼けて、砕けて、それを時間と引力とが混ぜ合わせたものですから、元の形など知りようがありません。
 いつかの星へ人間が溢れていたならば、全てが灌がれると信じられていたならば、いくらか時を遡ることだって出来たかもしれません。
 誰もいないのは、残らず掬い上げてしまったからです。
 この死神には、本当はもう存在する意義すら無いのです。ハルアード自身がそう考えているのです。
 それでも消えないのは、ハルアードの中の空っぽへ、いつかの砂と水とが小さな塊になって浮いているからでした。
 月が、地球が失われるのを、ただ眺めています。

 何年が経ったでしょうか。それとも一瞬の後でしょうか。ハルアードは何かを思いつき、それから大変に悔しがりました。そうして小さな星と、頼りない蝶のような魂で何処かへ駆けていくのでした。

 ある日、ある惑星のことです。大きな天文台がひとつ、遠い星の爆発を捉えました。
 あまりに月日が経っていましたから、きっと誰も、何も覚えていないのでしょう。それでも人々が、旧い星とその友の最期をあらゆる手段で伝え合い、記録したものですから、それがいつまでも残るのでした。


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