敗走


 全てを諦めた中、豪雨の音だけが懸命だった。休憩所のベンチに座り、疲れ果てたままそれを聞く。
 程よく乾き、程よく冷えたスーパーマーケットは、どこか外界と隔絶されたような調和を保っていた。消費のための隔絶。その楽しげなBGMを現実で覆うように、外から雨音が聞こえている。
 少しふらつく意識で、歩く体力が戻るのを待つ。コートの下では今も、半機械化された身体がどうにか人並み以下の働きをしている。床へ流れていく雨水には、少量だが血も滲んでいる。
 俺はヒーローというものをやっていた。何度かそう呼ばれることがあっただけの偽物かもしれないが。無謀だった。牙を持つことと、それを届かせることと、噛み砕くことはまったく別の話なのだ。
 最初は復讐者だった。俺を半死半生の目に遭わせて改造し、人類掌握の尖兵に仕立て上げようとした組織。それを滅ぼすため、何にだって手を染めた。結局のところ、卑怯なことを長く続けるためには豊かさが必要なのだと知った。
 その次がヒーローだった。俺の姑息な復讐劇に対して、とある団体が話を持ちかけてきたのだ。仮の顔と偽りの名前を売って、少しばかりの後ろ盾を得た。フィクションの世界の人物を装って表舞台に立ったりもした。すれ違う学生カバンに俺を模ったキーホルダーが付いていたりすると、悪くない気持ちにはなった。つぎはぎに直し続けた身体で、とりあえず立ち上がってみようと思えるくらいには。

 眠気に気を取られ、少しばかり身体が崩れ落ちそうになる。体勢の話ではない。深くヒビの入った左肩が、油断すると胴に乗っていられなくなりそうなのだ。この惨状で擬態迷彩機能が使えていることに感謝する。人の多い場所でしか使えないのが欠点だが、ガラクタ同然の俺をごく普通の客に見せかけてくれているはずだ。
 陽気なBGMが途切れ、事務的な店内放送に切り替えられた。
「業務連絡です。4番レジに応援を……」
 ああいった連絡の中には店員にのみ通じる暗号が含まれている、という話を聞いたことがある。事実、俺をヒーローに仕立て上げた団体はそのようなことをしていた。憧れを募らせる子供達の前で兵器の取引話をするのに、これほど良い方法もない。
怪しげな組織であったし、その上で俺の事情を汲んでくれていたのも事実だ。奴らに紹介されたスタントマンという職は、今でも表通りでの身分を保証してくれている。
 何を企んでいようと、なるべく応えようとはした。例の組織に襲撃されて散り散りになってしまったようなので、どういう魂胆であったにしろ確かめようはないが。
「行楽の季節……キャンプのための……」
 再開したBGMはまたも中途半端に終わり、今度は購買を促すような放送に変わった。こういうものも何かの暗号だったりするのだろうか。組織の上層に、こんな声の奴がいた気もする。俺をここへ追い込んだ組織が、今度こそ反逆者を消そうとしているのかもしれない。妄言だ。極度の疲労と後ろ盾を失った記憶が不安を作り出しているに過ぎない。
 眠気が募る。終わらない雨と、用のない店内放送を聞き流していたせいだ。俺は隠れ休んでいるのではなく、この枷のような身体で野晒しになっているだけなのではないか。痛みに鈍くなって久しいが、ここへ来て濡れたコートの下に居心地の悪いものを感じる。生身のまま残っているはずの右腕すら、関節が軋むように感じる。
「お世話になったあの方に、贈り物など……」
 放送が聞こえる。組織の暗号ではないだろう。もしそうであれば、俺はもう片付けられているはずだ。
 あの方などと呼ぶべき存在は、そんなものは俺の中にはいない。同僚も、友人も。誰も助けには来ない。俺から全てを奪った組織と、どこかへ消えていったヒーロー団体があるだけだ。もう協力し合うこともないなら、ヒーローもどこかへ消えてしまったのだろうか?
 仲間がいた事ならあった。仲間とは誰だ?あの団体か?もっと奥に記憶が残っている。肌と金属を伝う水。壁の向こうの雨。塗り固められたものが剥がれていくようだった。居心地が悪い。終わるならもう終わってくれ。

「お世話になったあの方に、贈り物などいかがでしょうか……」
 長く考え込んでいたのだろうか。あるいは気を失ってでもいたのか。少しだけ身体が軽くなっている。気が付けば雨の音は無く、この場所はいよいよ外との繋がりを失ってしまったように思えた。
 先ほどと同じ店内放送が聞こえる。その奥でBGMが流れている。いいや、おかしい。両方が同時に流れることなどないはずだ。
 通行人とは違う人影。見上げると、スーツを着た誰かがこちらを見ている。こちらを一瞥して去っていく。逆光だがわかる。少し意地の悪く、だが嫌味のない笑い方をするのだ。店内放送とまったく同じ声にも、やはり聞き覚えがあったのだ。思い出した。
 俺の因縁の相手である組織の首領。奴はその側近だ。あいつは俺を知っている。何より、俺はあいつを知っている。
 死人同然だった俺は組織のアジトに運び込まれ、そこで改造めいた治療を受けた。奴らは生きながらえた俺を兵とするため、契約めいた忠誠を誓わせようとしてきた。だから逃げた。その前のことだ。
 俺が身体の半分を吹き飛ばされたのは、組織の一員としてヒーローと戦っていた時だ。この街にヒーローを作り出す存在といえばひとつしかない。
 俺には″あの方″──つまり首領と出会う以前の記憶がない。改造された時ではなく、初対面の時だ。いま全てを思い出してすら、それ以前には届きそうもなかった。俺を育てたのは組織であり、庇護していたのは首領その人だった。
 仇は故郷だった。手に掛けた人々は同志だった。追い詰め追い詰められた連中は、いるはずのない仲間だった。何より訴えかけてくるのは、その頃に覚えていた安心の情だ。ヒーローの後ろ盾を失くしたときわずかに痛み、すぐに忘れてしまえたそれだ。俺という存在は孤高を気取っておきながら、ずっと何かに身を委ねて生きていきたかったのだ。それを知ってしまった。俺は自らの敵を知ると同時に、再び全てを失ったらしかった。

 自動式のドアが容易く開く。逃げ込む時も逃げ出す時も、それだけは変わらないようだった。どうにか歩けるのは休息のためだけではない。あの時現れた側近は、俺の身体に何かを注射していたようだった。原理はわからないが、機械化された部分の痛みすら引いている。当たり前に在った感覚の、元は痛みであったものを知る。
 地面は濡れている。空は嘘のように乾いている。いっときの通り雨だったらしい。俺がああして座り込んでいたのも、どうやら束の間のあいだのことらしかった。
 あの方は――組織の首領は、本当に俺から全てを奪ったのだろうか。それとも、俺が全てを捨てたのだろうか。尋ねに行くか。許しを乞うべきなのか。それとも、爆弾のひとつでも抱えて飛び込むべきなのだろうか。何も決められないまま寝床へ帰って、あるいは路頭に迷って。そこへ今日のように側近が、あるいはあの方が現れたら。始末されるならばまだいい。もしも、赦すような言葉を掛けられたら。俺はその誘惑に抗えるのだろうか。側近が意味ありげに言っていた「贈り物」というのは、いずれまたあの方へ捧げられる俺自身なのではないか。あの方の邪心には、俺が何をしようと想定の中のことのように感じられているのではないか。妄言、妄言だ。何を思い出そうと、今の俺は組織の敵に違いないのだ。もう誰も現れないでくれ。
 ぐらつく左肩を庇いながら、できるだけ普通を装って歩く。自ら向かう場所の無いまま、ただ彷徨い始めるようだ。
  背後のどこかで子供の泣き声が聞こえた。助けを呼ぶ声に振り返りかけて、幻聴だと気付く。ヒーローはどこかへ行ってしまったのだ。宥めるような声のあと、泣き声はすぐに小さくなった。また幻聴が聞こえる。「子供が転んだのを、親が起こしただけだ」


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